今日でこの世界で25年間過ごしたことになる。もし100歳まで生きるとしたら、今、その4分の1が過ぎたわけで、これは一つのマイルストーンと言えるだろう。
過去を振り返る
過去25年間、全体的には比較的順調だった。
幸運な出来事
高校1年生の時、クラスで春の遠足があり、みんなで山に登った。山頂で休憩して話していると、山の下に2人の同級生が見えた。何を血迷ったのか、彼らと話したくてたまらなくなり、山を下り始めた。通常の下山ルートではなく、階段もない獣道だった。そのまま歩いていると、重力のせいでどんどん加速し、最後には走り出してしまった。そう、傍から見れば、馬鹿が山を駆け下りているように見えただろう。目の前の景色がどんどんぼやけていき、確実にウサイン・ボルトよりも速かったのを覚えている。結果、足がもつれて転倒し、前宙返りのような姿勢で山を転がり落ちていった。その時の人体の放物線は、かなり完璧に描かれていたに違いない。その瞬間、頭の中は真っ白になり、「もしかしたら、この偉大な人生はここで終わるのか」とため息をついた。しかし、「ここは皇帝が埋葬される場所なのだから、まあいいか」とも思った。他のことを考える間もなく、突然巨大な岩にぶつかり、そのまま山の中腹で止まった。止まってから、頭に汗をかいているような気がして、無意識に拭った。拭いて見てみると、「やばい、赤い!終わった、終わった、今度こそ病院送りだ」と思った。 結果、病院で診察してもらったところ、ただの擦り傷と軽い胃出血で、2日間点滴を打ったら元気いっぱいに学校に戻った。
本当に幸運だった。あの大きな岩がなければ、本当にあの大きな陵墓の山腹で人生を終えていたかもしれない。
学生時代
その後、高校時代は3年間楽しくゲームをして過ごし、その結果、高校3年間で実験クラス、重点クラス、普通クラスを全て経験した。印象的だったのは、高校3年生の化学の授業で、先生が「これは高校2年生で習ったことだから、もう教えない」と言った時、僕は「(゚Д゚)ハァ?」という顔になったことだ。家に帰って急いで化学の教科書を引っ張り出すと、本当に載っていたので、1ヶ月かけて高校2年生の課程をしっかり補習し、その後また楽しく『毒奶粉』(Dungeon Fighter Online)をプレイした。高校3年間オンラインゲームをプレイした経験は、僕にオンラインゲームの本質を直接見抜かせ、卒業以来一度も触れていない。もう一つ面白い話がある。ある晩、僕は徹夜でネットをして、翌日の朝読書の時間に机に突っ伏して寝てしまった。僕たちの担任の先生は数学の先生で、「老漢」(おじいちゃん)と呼ばれていた。彼が僕が寝ているのを見に来て、耳を引っ張って机から引き起こし、みんなを静かにさせて言った。「みんな、彼を見習ってはいけないよ。いつも夜遅くまで勉強して、こんなに遅くまで寝ると翌日の授業に響くってわからないのかい?」クラス中が大爆笑した。みんな僕が徹夜でゲームをしていたことを知っていたのだ。
その後の大学入試では、国語はあまり良くなかったものの、英語で予想外の好成績を収め、最終的には大学の合格ラインを1点上回り、かろうじて大学に入学できた。
大学では石油地質学を専攻した。将来は李四光のように祖国のために石油を探すのだと、そんな悲壮な英雄主義的感情を抱いて大学に入学し、そしてまた4年間ゲームをした。大学3年生の後期に就職活動を始めた頃、英語の四級試験(CET-4)に4回挑戦したが合格できず、しかも2回連続で424点だった。そのため、中国石油が学内で合同企業説明会を開いた際、面接ではそれまで順調に話が進んでいたのに、四級に合格していないとわかると、すぐに不採用になった。その時、僕は非常に落ち込んだが、その後は寮に戻って楽しくDotaを続けた。もう一つ面白い話がある。シュルンベルジェが僕の大学に採用に来た時、僕は面接に行った。相手は一次面接が全て英語だったので、僕は拙い英語で急いで準備をした。僕の番になると、準備した自己紹介と専門知識を暗唱し始めたが、2文も言わないうちに続きを忘れてしまい、その場で適当なことをでっち上げた。しばらくの間、自分が何を言っているのかさえわからなかった。終わると、面接官は僕に「you are so lovely」と言い、そしてなんと一次面接に合格したのだ。不思議な話だ。四級に合格していなかったので、当時の就職活動は非常にうまくいかなかったが、僕は全く焦っていなかった。その後、復習せずに再び四級試験を受けたら、なんと合格した。
成績証明書がまだ届いていない頃、中国海洋石油が大学に採用に来た。履歴書とネットで印刷した成績表を持って面接に行き、ついに面接を突破してオファーをもらった。これは大変なことだった。
仕事
石油のあるところが私の家
大学卒業後、まず中国海洋石油の本社がある天津で1ヶ月間研修を受け、その後深圳支社に配属され、南シナ海の開発に携わることになった。「おお、南シナ海!祖国の青い国土!僕に任せてくれ!」と思った。深圳で長い間安全研修を受け、その後、新入社員歓迎会でHYSY981プラットフォームに配属されたことを知らされた。なんてことだ、僕は本当に幸運だった。981は当時国内で最も先進的な半潜水式プラットフォームで、その時の喜びは言葉にできないほどだった。毎日出航を心待ちにし、星や月を待つように出航を待つ間、海に落ちて溺れることへの恐怖から、無理やり水泳を独学した。 9月末頃に出航できると告げられ、同僚たちと深圳から湛江支社へ移動した。そこで上司が僕たちを盛大にご馳走してくれ、午後5時から深夜2時まで食べ続けた。これは僕たちの見送りだと言われた。翌日、また船で湛江から海南へ移動し、ヘリコプターをさらに2週間近く待った。ヘリコプターが来る前日、また偉い人たちが僕たちを盛大にご馳走してくれた。出航前には美味しいものを食べ、海から戻ったらまた盛大に食べるのが習慣だと言われた。何しろ、一度出たら戻ってこられない危険もあるからだ。
その後プラットフォームに到着し、最初の数日間は視察と研修だった。外国人幹部が僕たちに講義をし、プラットフォームの様々な施設を案内してくれた。その時、僕の英語は意外と悪くなく、ほとんど聞き取れることに気づいた、ハハ。研修全体はとても楽しく、プラットフォームは広大で、見て回ったり食べたりしているうちに、あっという間に1週間が過ぎた。視察中に気づいたのは、海が本当に青くて美しいことだ。プラットフォーム上では安全上の理由から写真撮影が禁止されており、それが残念だった。さらに気づいたのは、実は泳げるかどうかは重要ではないということだ。プラットフォームの甲板は海面から30メートル以上あり、落ちたら死ななくても重傷を負う。泳ぎで助かるなど期待しない方がいい。 研修が終わると、何人かの同級生が下船し、数人がそのまま仕事を始めた。そして、僕もその仕事をする一人だった。しかもいきなり夜勤だった。夜勤は本当に辛い。夜中の12時から始まり、中山大学の大学院生が僕を指導してくれた。午前6時に食事のために降り、食べ終わってから先輩に「食事が終わったら、いつ仕事に戻るんですか?」と聞くと、「食べ終わったらすぐだよ」と返ってきた。「マジかよ」と思った。再び甲板に上がると、ちょうど6時を過ぎたばかりで、太陽はまだ出ておらず、海面は真っ暗だった。空には雲が連なり、非常に重苦しい雰囲気だった。あと6時間も仕事をしなければならないと思うと、すぐにでも海に飛び込みたい気分になった。
プラットフォームで前後して1ヶ月弱過ごし、下船するとすぐに辞職を申し出た。「この仕事は僕には無理だ」と。
辞職の手続きをしに行ったが、上司が不在でサインがもらえなかった。僕は気にせずそのまま家に帰った。両親からは散々叱られた。「こんな良い仕事、他の人は見つけたくても見つけられないのに、お前ときたら、数日で辞めるなんて」と。僕は厚顔無恥で、気にしなかった。ちょうどその頃、秋の採用シーズンだったので、また面接に参加し、陸上での仕事を探した。そして再び中国海洋石油の面接を受けたが、面接に合格して三者契約を結ぶ段階で、僕はそれをしなかった。相手は直接「新卒しか採用しない。国営企業として社会的責任があるから」と言って、僕を不採用にした。祖国のために尽くし、「石油のあるところが私の家」という僕の心は、ここで諦めることになった。 専攻を変えてコンピュータサイエンスの大学院生になろうと決めた。ずっと興味があったし、大学で2年間知乎(中国のQ&Aサイト)を見ていて、コンピュータ業界の発展が素晴らしいと感じていたからだ。何冊か教科書を買って家で勉強し、独学で大学院受験をするつもりだった。両親は僕の計画を知ると、かなり反対した。「いい年した男が毎日家に引きこもっているなんて、どういうことだ」と。 大学院受験の件は諦め、直接仕事を探すことにした。ちょうど何人かの同級生がフロントエンドの仕事をしていたので、話を聞いてみると悪くないと感じた。そこで家で2ヶ月間独学し、その後ネットで何通か履歴書を送った。 数回の電話面接とビデオ面接を終え、オファーをもらい、新年後に杭州へ出発した。
杭州よ
会社に報告に行く前日、後に僕の最初の上司となる人に引き抜かれ、結局契約を破棄して彼の下で働くことになった。上司は僕にとても良くしてくれ、僕も楽しく働いた。約1年半働いた後、会社が新三板に上場し、その後会社全体が非常に浮足立ってしまった。
もうここにいられないと感じたので、仕事を探しに出て、NetEase(網易)に入社した。
NetEaseでまた2年間楽しく働いた。入社当初は「コラーゲンたっぷりの顔」と評されていたのが、「君は88年生まれだろ?」と言われるようになり、うん、ずいぶん成長した。元々は少なくとも3年間は働くつもりで、新しくできたキャンパスが完成して引っ越して体験するまでは働くつもりだった。しかし、チームの同僚がAnt Group(蚂蚁)に引き抜かれすぎて、僕と一緒に来た人たちはほとんどいなくなり、まるで鍋ごと持っていかれたような状態だった。さらに、年初に経済的に非常に困窮しており、人民元が急務だった。そして、アリババの従業員向けローンサービス「借呗」が僕のニーズを非常に満たしてくれた。 そこで、元同僚の誘いに乗って、アリババに来た。
アリババに来る前の数ヶ月で最もよく聞いた言葉は「太ったね」だった。そして、実際に僕は太った。 アリババに来てから、2ヶ月で体重が60kgから68kgへと急増したが、僕はそれに対して特に実感はなかった。ある朝起きて、2ヶ月前に買ったズボンを手に取り、履いてみると、「やばい、ボタンが閉まらない」と気づいた。その瞬間、現実感がなく、夢から覚めていないようだった。こんなことが自分に起こるなんて信じられなかった。大学時代からの目標は65kgだったのに、卒業して3年半経っても体重は60kg前後を行ったり来たりで、本当にいくら食べても太らないタイプだったからだ。しかし、今の体重の急増は、僕の体に大きな変化が起こったことを実感させた。これに対する僕の解釈は「過労太り」だ。
仕事のプレッシャーが本当に半端なく大きいことを直感的に感じた。おおよそNetEaseの少なくとも2倍だ。個人の時間は大幅に削られ、ハーモニカやゲームなどはほとんどやる時間がなくなった。日記もほとんど季刊誌になりそうで、生活の可能性も大きく減ってしまった。
一度後悔の念が湧いたが、ここまで来たのに逃げ出すなんて、臆病者になるだけだ、冗談じゃない。しかも、僕のようなプロフェッショナルが、そんなことをするわけにはいかない。だから、ここでしっかり働くしかない。プラットフォームは大きいし、指導してくれる先輩も良いし、上司も悪くない。これ以上何を望むというのか。少なくとも何かを成し遂げれば、自分自身に恥じることもないだろう。
一攫千金
2015年から株式投資を始め、市場に入ったばかりで2015年の大暴落を経験し、ほぼ半減した。浮き沈みを経て、2018年初めに株式市場とファンドから撤退した。計算してみると、最大6万元の総投資で、なんと3万元以上も儲け、平均年利回りは約14.5%だった。悪くない。
2017年にマイニングを始めたが、後に物足りなく感じ、仮想通貨取引に手を出した。そのために自動取引システムまで書いたが、結果は「猛虎のような操作」の後、2ヶ月で6500元を失った。まさか、勤勉な「韭菜」(カモ)になってしまうとは。
旅の思い出
大学時代は、ほぼ毎年地質実習に参加した。行く場所は、どれも人里離れた荒野で、一緒に実習する同級生以外、800メートル先には誰も見えないような場所だった。山を登り、谷を歩き、地層の産状を測定し、たくさんの地質図を描いた。外に出れば地質ハンマーを手に、「この世に俺以外に誰がいる」という気分だった。当時、将来こんな仕事も悪くないな、祖国の美しい山河を巡れるなんて、と思ったものだ。
2017年、会社に同行して日本へ行った。資本主義の冷たさを感じた。これが人生初の海外旅行で、とても新鮮な気分だった。日本は、僕が行ったのが大自然の北海道であっても、本当に街がきれいだ。ただ、向こうでは食事が基本的に冷たいものが多く、まだ慣れなかった。人生で初めて動物園に行ったのも、この海外旅行中だった、ハハ。
2018年、転職の時期を利用して半月間の休暇を取り、一人でタイへ旅行に行った。 航空券を買ってから家族に話すと、家族は「見知らぬ土地で、一人で海外に行くのは安全ではない」と心配した。僕もそれを聞いてよくよく考えると尻込みしたが、航空券の払い戻しが半額になるのを見て、「やはり行こう」と思った。 行ってみると、僕の拙い英語でも普通にコミュニケーションが取れることがわかった。しかもタクシーの運転手さんには英語が上手だと褒められ、恐縮するばかりだった。 タイの景色はやはり素晴らしく、物価も安かった。一人だったのでとても自由で、昼は11時まで寝てから出かけ、行きたいところへ気の向くままにぶらぶらと、気ままに過ごした。
楽器演奏と歌
2015年に杭州に来てから今まで、3年以上にわたり、会社の近くにあるいくつかの立ち退き住宅団地を転々としてきた。最初は早朝の布教活動の銅鑼や太鼓の音に耐え、次に冠婚葬祭での楽器演奏と歌声。この楽器演奏と歌声、楽器演奏と歌声は、改善される前は誇張抜きで、平均して月に一度、一度に一週間続き、冬になるとさらにひどく、2ヶ月に3回という具合だった。しかも、この団地の人たちはそれが大好きで、毎日集まって楽器を演奏したり歌ったり、シャーマンの踊りのようなことをしていた。最初はなぜなのか理解できなかったが、後にわかった。この立ち退き住宅の住民のほとんどは高齢者で、基本的にやることがなく、みんなで集まって歌ったり演奏したりする方がましなのだ。
僕はよく、「もし自分が年老いてこうなったらどうしよう」と考える。そう考えると、とても怖くなる。
そこで、自分に趣味を身につけようと思い、あれこれ選んだ結果、ブルースを選んだ。簡単で手軽に始められるからだ。実は以前も色々な楽器を独学しようと試みたが、どれも半年以上熱意が続かなかった。今回は今までで最も長く続いているもので、今では断続的に1年以上経ち、ほとんどの低音6がない曲は吹けるようになった。たまに自己満足で演奏するのも楽しい。
エンターテイメント
映画
基本的に公開される映画は全て観る。
一人で観ることも、 二人で観ることも、 三人で観ることも、 男友達と観ることも、 女友達と観ることも、 男女グループで観ることもある。
本当に映画を観るのが好きだ。その2時間の間、何も考えずに、全身全霊で映画に没頭し、ストーリーに沿って進む感覚は、本当に最高の体験だ。
お酒
少し飲むのは良いものだ。
歌
以前はジェイ・チョウ、JJ・リン、S.H.Eを聴いていたが、今はジャッキー・チュン、ボビー・チェンを聴いている。歌う曲もそうなってしまい、KTV(カラオケ)に入って歌い始めると、みんなに「お前、80年代生まれだろ」と言われる始末だ、ハハ、本当に年齢がバレてしまう。
ハーモニカ
自己満足で楽しむ、良いものだ。
賃貸住宅
杭州に来てから、基本的に1年に1回引っ越し、4年間で3回も場所を変えたが、会社の近くにある立ち退き住宅団地から逃れることはできなかった。しかし、この状況も一時的に止まることになりそうだ。9月頃にまた家を探すつもりだった。今の場所は条件が本当に悪く、うるさくて湿気がひどく、住んでいられないからだ。同僚がそれを知って、「人材アパートを申請できるよ」と言ってくれた。僕はアリババにもそういう制度があるのかと思ったが、個人申請だという。「まあいいか、少し高いけど条件は良いし」と思った。そこで申請書を提出し、管理人にどれくらい待つのか尋ねたところ、「優秀な者から優先」と言われた。僕は「終わった」と思った。僕のようなダメな学歴では、いつになるかわからないので、あまり気にしていなかった。
毎週家を探しに出かけたが、理想的な物件はなかなか見つからなかった。高すぎるか、ひどすぎるかのどちらかだった。自分ではもう探さず、全て仲介業者に頼っている状況でも、なかなか良い物件がなかった。濱江の家賃は本当にすごいとしか言いようがない。もし僕が買った株がこんな風に上がったら、寝ていても笑って目覚めるだろう。 そして昨日、11日、僕の書類審査が通ったので、物件を見に来るように言われた。僕は早めに食堂で何か食べてからタクシーで行った。見てみると、とても良かったので、すぐに決めた。2ヶ月以上にわたる家探しはこれで終わり、今後2、3年は引っ越すこともないだろう。嬉しい。 しかし、2、3年住んだルームメイトとは別れることになる。少し寂しい。しかし、出会いがあれば別れもある。C’est la vie.
過去の振り返りを終えて
全体的に言えば、この25年間はかなり順調だった。そして僕はとても楽観的な人間なので、過去にはかなり満足している。 この2年間、親戚や友人からよく「元気にしてるよ」と言われるようになった。以前はこのような言葉を聞いたことがなかったが、もしかしたらある年齢になり、周りの人々の期待が「勉強はどうだ」から「生活はどうだ」に変わったのかもしれない。この数年間は確かに疲れたが、全体的には現状に満足しており、かなり満たされている。「元気にしてるよ」。
レフ・トルストイの『戦争と平和』の中の一節を思い出す。
人生における真の不幸は二つしかない。良心の呵責と病気である。この二つの災いがない限り、幸福である。
この言葉に僕は深く共感する。だから、僕は今とても幸せだと感じている。
無理やり展望
最近、経済状況はあまり楽観的ではない。住宅ローンを返済し、友人から借りたお金を返し、家賃も払い、さらに日々の出費もあるため、毎月もらう給料は焼け石に水だ。幸い、僕には高い物質的な要求がないので、そうでなければ非常に苦しいだろう。
これら以外に、もし他に不満な点を挙げるとすれば、それは以前の僕が生き方が素朴すぎ、地に足がつきすぎ、純粋すぎたことだ。人とのコミュニケーションで最も重要なのは誠実さだと考えていた。もちろん、それが悪いわけではないが、人生から多くの楽しみが失われるのは避けられない。人と知り合ってすぐに深い話をしてしまい、何でも話してしまうのは、あまり適切ではないだろう?
だから、これからの数年間は、あまりにも正直すぎず、素朴すぎず、純粋すぎないようにしようと思う。適度に「装う」ことで、生活に少し楽しみを加え、実験として何が変化するか見てみよう。生活様式の変化は、この世界に対する異なる認識や体験をもたらすはずだと信じている。それはゲームをプレイするのと同じだ。同じゲームでも、キャラクター作成時に異なる性格を選ぶと、全く異なるゲーム体験が得られる。デカルトの言う「我思う、ゆえに我あり」と少し似た感覚で、つまり、あなたの内なる思考が最終的に外の世界に対するあなたの感じ方を決定するのだ。
決めたからには実行する。適度に「装う」という点は、まずこの記事から始めよう。
最近1年間、将来どんな生活を送りたいのか、どんな人間になりたいのかをよく考えている。しかし、まだはっきりとは答えが出ていない。
長老は言う。
個人の発展は、確かに自己の努力によるものだが、歴史の行程も考慮に入れなければならない。
南シナ海で石油を掘っていた僕が、どうして杭州に来たのか、自分でもわからない。もしかしたら、ずっと中国海洋石油にいたら、今よりもっと楽な日々を送れて、僕が「咸鱼」(怠け者)になりたいという願望にもっと合致していたかもしれない。
そして、僕にはまだ未来に対する明確な計画がなく、歴史の行程についていけるかどうかもわからない。
年末のまとめ
どうせ年末なので、今年の年末のまとめも一緒に書いてしまおう。
元々、年初の計画では2年間の休暇を取るつもりだった。卒業してから3、4年間頑張ってきたので、少し休んで考えを整理するべきだと思ったからだ。しかし、仕事がアリババに変わってしまい、休暇計画は失敗に終わった。
さて、今年何をしたかというと、まとめてみれば実はたった3つのことだ。
- ローンを背負った
- 実弾射撃を体験した
- 転職した
年初に2018年の目標を一つ立てたが、結果は全く進展せず、進捗0%、達成度0%だった。この実行力はダメだ。
実行力はダメだが、目標は立てなければならない。2019年は以下のいくつかの小さな目標を立てよう。
- 2017年の目標を達成する(任意)
- 不労所得 500/月
- Kindleをカップ麺の重しにしない
最後に、自分への誕生日プレゼントとして一言。
走れ、誇り高き少年よ。
この記事は 2018年12月7日 に公開され、2018年12月7日 に最終更新されました。2495 日が経過しており、内容が古くなっている可能性があります。